飲んで飲まれて男談義「おごられ酒」 BURDEN OF PROOF 飯田誠司
男らしさの形は人それぞれ。しかし、強さを追い求めることこそ、その究極である。そんな背景を持つ男が、アクセサリーブランド「BURDEN OF PROOF(バーデンオブプルーフ)」代表の飯田誠司だ。元プロボクサーという経歴を持つ男の人生と、彼が生み出すアクセサリーの魅力に酒を片手に迫ってみます!
酒場系は大好きですね。四十代になってからはそればっかり。
ーー飯田さん、お酒は好きですか?
飯田 毎日飲みます。うち(バーデンオブプルーフ)では、スカルのショットグラスを出してるくらいなんで。
ーー今日連れて来ていただいた「忠さん劇場 くいしん坊」について教えてください。
飯田 知り合って12年くらいなんですが、大将の小口(忠寛)さんは僕がボクシングをやっていた時の憧れであり、兄貴として慕っている鬼アニキ(鬼塚勝也*飯田さんが兄貴と慕う元世界チャンピオン)の同級生なんです。鬼アニキと一緒にインターハイでしのぎ合っていたような人。今ではワタナベジムのトレーナーで、内山高志チャンピオンをはじめ、何人もの世界、東洋、日本チャンピオンを指導している方なんです。たまにお邪魔しに来ているんですが、名物の山賊焼き(半身¥1,300、もも¥850)とか、何を食べてもうまくて。
ーーサクサク&ジュージーで絶品ですね! あっさりしているから、胃もたれもしなそう。美味しいです。「忠さん劇場 くいしん坊」以外だと、どこに飲みに行くことが多いですか?
飯田 普段はアメ横ですね。週に3回くらい御徒町の材料屋さんに行って、そのまま飲んだり。「大統領」とか「森の茶屋」という定食屋さんに、よく行っています。酒場系は大好きですね。四十代になってからはそればっかり。三十代の頃は、ちょっと格好つけたバーじゃないと嫌だったんですが、もう行きたくない(笑)。家で飲むのはウォッカかラム。ストレートで。だからショットグラスを作ったというのもありますが、それでも足りなくなって、もう少し大きいウォッカグラスも作りました。普段は朝8時くらいに起きて作業をしていますが、だいたい午前中は二日酔いですよ(笑)。
一番憧れていたのは、同じ階級のウイルフレド・ゴメス。あと、マイク・タイソン、鬼アニキ(鬼塚勝也)。
ーーボクシングの話が出ましたが、飯田さんはボクサーだったんですよね。
飯田 高校生の時にジムに行くようになったんです。ずっとやりたかったんですよ。小学校2年生で初めて後楽園ホールにボクシングを観に行ってから。でも子供では習えなかったから、空手をやってたんです。目黒高校にも空手推薦で入ったんですよ。でも、やっぱりボクシングがやりたくて、(ボクシング開始時に必要な)CT検査を受けたんです。そうしたら頭蓋骨と脳の間に隙間が見つかってしまって「プロテストは受けられない」と言われてしまって。当時、赤井英和さんの事件(1985年にボクシングの試合で急性硬膜下血腫・脳挫傷で一時意識不明に陥った)で、ルールが厳しくなってたんです。ただ、アマチュアの試合ならCT検査を受けなくても大丈夫だったので、まずはそこでやろうと。通っていたジムは行徳にあったキクチジム。菊地萬蔵会長がやっていたジムなんですが、丹下段平のモデルになった人でした。
ーーそれでもやりたいほど好きだったんですね。
飯田 強いものに憧れていたんですよ。ブルース・リーや『あしたのジョー』とかに影響を受けて。その当時の渡辺二郎さんとか具志堅用高さんとか、凄かったですよ。具志堅さんなんて世界王座を13回連続防衛しているし、今だに日本で一番ですよね。高校生の時に後楽園で初めて見たんですが、むちゃくちゃ殺気がある。鬼アニキもそうですが、話しかけられないくらい普段から殺気があるんです。自分も強くなったらこうなれると思っていたんですよ。
ーーでも、CT検査でプロテストは受けられなかったんですよね?
飯田 それが、19歳のときに改めてCT検査を受けたら、なぜか大丈夫だったんですよ。打たれたら脆いとは言われましたけどね。それでも20歳のとき、1991年にプロデビューしました。その時に一番憧れていたのは、僕と同じ階級のウイルフレド・ゴメス。あと、マイク・タイソン、鬼アニキ。ちなみに今日着ているTシャツのタイソンの絵は、鬼アニキが描いたものなんです。
ーーファイトマネーをもらった時とか、嬉しかったですか?
飯田 4回戦ボクサーのファイトマネーはチケットだけなんですが、デビュー戦の時にはいっぱい来てくれて、50万円くらいになったんですよ。だから、両親に初めておごりましたよ。「旅行に行ってこい!」って(笑)。ただ、自分には良い車に乗りたい、大きな家に住みたいというのはなかったんです。とにかく次に決まった相手に勝ちたいというだけ。ボクシングって、人前でのタイマンですからね。
ーーただ、ボクサー生命は短かったということですが、理由はやっぱり怪我だったんですか?
飯田 ドクターストップです。自分でも頭部に脆さがあったのはわかっていたんですが、打たれた時の感覚が全然違いました。プロ二戦目でダメージを受けて、そまま三戦目をやったらダメだった。後楽園ホールから病院送り。痛いというよりも、パンチをもらった時に気持ち悪くなったんです。試合後は完全に意識がなかったですからね。でも、それも覚悟していたんですよ。「相手に勝てれば死んでもいい」という気持ちだったんで。
ーー昔からやりたかったボクシングを不本意な形で辞めることになって、喪失感はなかったですか?
飯田 それはありましたよ。ボクシングを辞めてからとある会社にも勤めましたが、やりたい仕事でもないし、まだボクシングも心の中に残っていたから、ロサンゼルスに行ったんです。当時「VOICE」という古着屋がアメリカにも事務所を持っていたので、そこにお世話になって。向こうで黒人とかメキシコ人とかとスパーリングやったんです。彼らは本当に強くて、「やっぱり俺はボクサーは無理だな」と思いましたね。自分は鬼アニキほど気も強くないし。踏ん切りがついたんです。ただ、ボクシングで生きてきたんで、どれだけ年上でも僕より弱い奴にはタメ口でしたね(笑)。本当に生意気でした。しかも、それに気づいたのも30代後半くらいだから、ダメですよね(笑)。